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一昨日は久しぶりにサイクリングに出かけました。写真のように自転車を分解して袋に入れて電車に乗っています。そもそも自転車を分解して運ぶということをご存知ない方が多いので、写真を撮っておきました。

よく聞かれるのですが「その自転車は折り畳みですか?」という質問です。答えはノーですが、普通の自転車はほとんど分解出来ます。折り畳みという極めて不適当な日本語で表現される一部の自転車は、自転車のフレーム自体に折り曲げ機構を採用しているのですが、これですとフレーム自体に強度や耐久性がなく、種類やサイズ・色も限定されますから好みの自転車に長く乗るには向いていません。

サイクリング用の自転車はほとんど全て分解出来ます。簡単なレンチとスパナがあれば分解出来ます。分解して交通機関で運ぶことをサイクリングの用語で「輪行(りんこう)」と言います。分解した自転車を収納する袋を輪行袋(りんこうぶくろ)と言い、サイクルショップで売っています。ちなみに昔は電車に乗せるのは有料でしたが、今は無料になりました。

既にサイクリングの経験のある方は、ぜひ輪行サイクリングに挑戦してみて下さい。行動範囲が広がり、ずっと遠くまで未知の旅が広がります!







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これは昨日出かけた調布飛行場に残る遺物で、昭和16年に飛行場が完成したときの入り口の門柱です。それにしてもなぜ「東京」でなく「東東」になっているのでしょうか?

終戦後に進駐した米軍のイタズラという説があるそうですが、飛行場が完成した当時の東京は「東京府東京市」でしたからその略称ではないでしょうか?ちなみに門柱の近くに説明板があるのですが、そこまでは来歴はありません。完成時の写真が残っていない限り推測の域を出ませんが。ついでに書くと、調布は未だ調布町でした。

もう一つ「東」で思い当たるのは帝都の防衛に当たっていた「東部軍」です。東部軍は日本陸軍の軍管区の一つで、調布に配属された飛燕の戦闘隊をも所管します。名目上は民間と合同の飛行場とは言え、実質は陸軍の基地だったのです。誰か思い入れのあった軍の司令官が「東東と刻め」と部下に命令したかも知れないですね。

ちなみに、東京上空でB29と格闘した飛燕はその後鹿児島県の知覧に移動して特攻作戦に従事したという悲しい歴史があります。知覧も同じ陸軍の基地でしたから。いつか知覧の特攻平和会館を訪ねてみたいです。








今日は自転車で調布から野川にサイクリングに出かけました。途中の調布飛行場で保存されている戦闘機の掩体壕(えんたいごう)を見ました。調布飛行場はその昔、日本陸軍の航空基地でした。

掩体壕とは敵の空襲から飛行機を守るための保管場所で屋根はコンクリートで出来ています。入り口は塞がれていて陸軍三式戦闘機「飛燕」の絵が描かれています。ちなみに飛燕はドイツから供与されたメッサーシュミットをモデルに開発された陸軍の制式戦闘機でライセンス生産された水冷エンジンを搭載しました。飛燕のように機首の細いスマートな戦闘機が水冷(液冷)式で熱くなったエンジンを液体(エチレングリコール)で冷やします。大部分の機首の太い戦闘機は空冷式で、空気を取り込んで冷却します。どちらが速いスピードで飛べるかは一目瞭然ですね。

昔の記憶ですが、たしか調布飛行場に当時の給水タンクがあって、そこに米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射の跡、つまり銃痕が残っているという話でした。今日は飛行場を見わたしたのですが、見当たりませんでした。

調布飛行場の近くには日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機の研究所もあって、太平洋戦争末期には米軍の爆撃目標としてさんざんに叩かれました。当時の記録や記憶が時代とともに薄れていく中で、物言わぬコンクリートの掩体壕だけが風雪に耐え、泰然と残っています。








山の資料を整理していたら、中央線大月駅の釜飯の包み紙が出てきました。駅弁の釜飯というと信越線の横川の釜飯が昔からあまりにも有名で今では高速道路でもどこでも売っていますが、僕にとっては大月駅の釜飯の方が懐かしく思い出があります。

昔、大月の駅弁は売り子の小父さんが首から下げた大きな箱(形容が難しいのですが見たことがある方は分かりますよね?)に入れて、駅のホームを歩き回って販売していました。うまくいくと列車の座席に座ったまま買えるのですが、時間がないときは多少のスリルもあって楽しいものでした。

その後、大月駅では対面販売はなくなってしまい、ホーム中央の売店にいくつか置いてあるだけになりました。ちなみに製造元の桂川舘は大月駅近くにあって釜飯以外の駅弁も販売されていたようですが、現在はどうなのか僕は駅弁マニアと言うほどではないので分かりません。

何だかまた食べたくなりました。釜飯の容器は土鍋として使えますし、また見かけたら買おうと思います。それにしても、列車の窓が全部開けられた時代が懐かしいです。今の新幹線と特急は確かに速くて快適ですが、窓が開かずにどうしようもない閉じ込め感を感じることがあります。停車時だけ窓が開くようにして、駅弁を売ったらどうでしょうか。







1960年代のアメリカのテレビドラマ「逃亡者」を覚えていますか?まだテレビがモノクロの時代にいくつものアメリカのテレビ番組が放映され、日本の視聴者にアメリカの様子を伝え、親近感を盛り上げました。

いくつかのドラマは単なる娯楽番組でなく、ヒューマンドラマでした。逃亡者もまたそうしたドラマの一つです。主人公の生きざまを通して、人間の強さ・弱さ、さらにはアメリカの持つ普遍的な自由への欲求を描いています。

同じくアメリカのテレビドラマであった「コンバット」も沢山の視聴者にとって決して忘れることの出来ない番組であったと認識しています。大げさに言うとコンバットを最初にオンエアで見た我々の世代はテレビによって人間愛を教えられた、そのぐらいの思い入れがあります。








今日は南大沢のラフェッタ多摩の園芸店へ行って来ました。ふと長靴を見たら素敵な長靴がいっぱいありました!中でもイチゴ柄のがかわいいですね!

思い起こすと、昔の長靴は黒と黄色しかなかったですね。ついでに傘も!黒い傘をコウモリ傘と言ったのは遥か昔です。今の子供にコウモリ傘と言って通用するのでしょうか?








これも思い出のデジカメをです。カシオQV-4000は2001年の発売で413万画素です。当時の最上位機種でした。レンズはキヤノン製(キャノンではありません)で、このズームレンズを収納するための分厚いボディが特徴です。今の感覚では武骨なデザインですが、実際に持ってみるとグリップが良く安定感抜群です。

本機は小生がレンズ保護のフィルターとして、カシオのコンバージョンレンズアダプターを介してキヤノン製の58mmスカイライトフィルターを装着しています。このアダプターがあると、広角または望遠の各種コンバージョンレンズも使えるのでとても便利です。

電池室は単3電池4本を収納出来るため、ニッケル水素電池や低温に強いニッカド電池を繰り返し充電しては山登りに使っていたことを思い出します。当時よく登っていた山梨県の中央線沿線の山は、下車した駅付近でも真冬は零度前後でした。山登りをしない方から見たら気違い沙汰と思うでしょうが、気温がマイナス温度でも歩いていると暑いのですから不思議なものです。

話が飛びましたが、小生にとってはこれも思い出の深いカメラ、少し大げさに言うと冬の山で山で生死を共にしたカメラの一台です。








昨日は久しぶりに自転車で上柚木の田んぼへ行って来ました。もちろんバルタン星人(アメリカザリガニ)に会いにです。が、残念ながらもう田んぼの水が抜かれてしまっていてバルタン星人の群れは姿を消していました。もしかしたら水と一緒に流れてしまったかも知れませんが、土の中に潜っていたザリガニと来年また再会出来るかも知れませんね。

東京郊外の田んぼは黄色の稲穂が重そうに頭を垂れています。ようやくうるさかったセミも鳴かなくなり、本格的に秋になりましたね。








昨夜、拙宅の集合住宅で月下美人を沢山育てておられる方から電話があり、月下美人の開花を見て来ました。1年365日のうち一日だけ、それも5~6時間だけの開花だそうです。今回は4人の美人に10個以上の花が咲きました。

この方は色々な花を増やしては団地内の皆さんに配っておられます。いずれ、団地内の月下美人を集めて「美人コンテスト」を開きたいとのことでした。

小生もいただいて育てたことがありますが、月下美人だけはあちこちから芽が出て勝手な方向に伸びるのと、丈が高くなった頃に台風に遭って折れてしまいました。

それ以降はもっぱらこちらの方の美人を毎年鑑賞させていただいています。ややクリーム色がかった大きな花が醸し出す幻想的な趣きとそこはかとなく高貴な香りを毎年楽しんでいます。








これも山の記念品でエーデルワイスの壁かけです。大菩薩峠の名前が入っています。はたして大菩薩にその仲間のウスユキソウが咲いているかどうか分かりませんが、昭和のストックがまだ介山荘で売られているようです。エーデルワイスはドイツ語で「高貴な白」を意味しており、その可憐な花とチャーミングな語感によりヨーロッパアルプスを代表するシンボルマークとして愛されてきました。

古くはドイツの山岳猟兵師団、つまりは山岳狙撃兵の部隊章として彼らの軍服の襟元を飾りました。現在はどうなっているか分かりませんが。

アルプスでは高嶺の花としてあまりにも有名ですが、草花の多い日本では同種の花も見かけることが少ないですね。本場のエーデルワイスを見たことはないのですが、もしかしたら目立たすにひっそりと咲いているタイプの花なのでしょうか。








本棚の奥から懐かしいペナントが出てきました。山梨県の大菩薩登山の記念ペナントです。ペナントが出来るぐらいですから大菩薩も観光地なのですが、やはり2000m近くあるので人気の山ですね。たぶん、大菩薩峠の介山荘が作ったものだと思います。

写真のペナントは昭和40年代だと思いますが、当時はペナントが大流行でした。観光地はどこもペナントだらけで小中学生は買ったペナントを部屋中の壁に貼っていました。修学旅行でもお土産は沢山あるのですが、行った名所・名勝がパッと判る!証明書のように友達は皆買っていましたね。

お土産としても製造原価が安くて売る側も好都合だったのではないでしょうか。これを壁に貼るといかにも昭和の時代の小学生の部屋になってしまいますが小生は嫌いではないです。

また、ペナントが復権したら面白いかも知れません。今でしたらバーコードを入れて読み取った携帯から観光地のページに誘導することができますね。バーコード付きペナントは如何でしょうか?







先日、鉄道マニアという若者と話していて「エックって知ってる?」と聞いたら「エック?それ何ですか?知りません!」と言う返事なので、昔の写真アルバムに貼ってあったクーポンを見せてあげました。皆さんはご存じでしょうか?50代以上の方はご記憶にあるでしょうか?

エックとはエコノミークーポンの略で昭和40年代の国鉄が増客増収のため考え出した商品です。さすがに最近は聞き慣れない言葉で、パソコンで検索しても「エッグではありませんか?」と類推されてしまいますね。

当時の国鉄は旅行業務取扱資格がなかったので、国鉄単独では企画商品が販売出来ず、旅行会社とタイアップして数々のエックを発売しました。エックは国鉄乗車券と急行券、目的地までのバス乗車券と入場料・昼食代などを含むセット商品で、鉄道管理局別に地域ローカル性を持っていました。

エックは色々な種類がありましたが、当時のブームの先駆けとなるスキー・スケート・温泉旅行などのエックが人気を博したように記憶しています。JR時代になってからはもちろんその比ではありませんが、乗車券しか売っていなかった国鉄が顧客サービスの便を計る方向に踏み出した一歩として評価していいのではないでしょうか。

唯一の難点は、これが乗車券ではなくて企画商品なので、万一の場合、発売駅まで行かないと払い戻しが出来ないことでした。エック以外のその後の国鉄の商品もそうですね。いずれにしても懐かしいです。








昨日は墓参りで実家の渋谷区初台に行って来ました。昼間は代々木八幡神社のお祭りで露店を見て回りました。懐かしい昭和の商品を並べた露店が沢山出ていて雰囲気を楽しみました。

その後、夜7時から初台の阿波踊りを見に行きました。もう40年以上の歴史があるそうですが、さすがに踊り手も応援の皆さんも熱気が凄かったです!

中でも、商店会の本部前に折り畳みイスで陣取った30~40名の一団の応援と手拍子や身体のリズムが半端でなく、ノリに乗ったエネルギーとパワーフォースを怖いほど感じました。いったい、あの方たちは本場の阿波徳島の方だったのでしょうか!?

初台の阿波踊りは、都内でも超有名な高円寺の連の皆さんも出演されるのですが、いやそのリズムとテクニックといったら物凄くて日本の踊りとは思えないほどでした!ちょっとアフリカの踊りを感じさせました。アフリカ出身の皆さんを募って「アフリカ連」なんて編成したら迫力があるかも知れないですね!あるいは、日本の阿波踊りをアフリカ諸国に紹介したら面白いんじゃないでしょうか。







今日は紅白のムクゲの花が咲いているのをみました。、他にもピンクのムクゲも見ましたが、僕はこの紅白のムクゲが好きです。ちなみに、このムクゲは「日の丸」というそうですね。







昨日、八王子市別所の長池見附橋を通りかかりました。見附橋は東京の四谷見附橋を運んで移築したものです。長池の広い空間とマッチしてテレビにも出たりしました。人工池には自然の浄化作用がないのですが、人工的な空間でも広々としているのはやはり気持ちがいいですね。

夏に繁殖した雑草もよく見るとススキが目立ちます。ようやく涼しくなりましたね。やっと秋がやって来たようです。








以前、お友達にいただいたグラパラが見事に増えました!いただいた一鉢から葉っぱをちぎっては植えていたらそこから次々と芽を出して大きくなりました。

このくらい増えたら、サラダにして食べてもヨーグルトに混ぜても大丈夫ですが、育てている側の心理としては愛着があって可哀想で食べられないものですね。はっきり野菜と認識しているものは別ですが。それでも今年の夏は、庭のキュウリとトマトを美味しくいただきました。








また、手元の昭和40年のハイカー誌を眺めています。写真は灯油コンロの広告ですが、背景のキャンプ風景の三角テント(もしくは家型テント)がいかにも時代を象徴していて、懐かしく眺めています。

中学校以来親しんだキャンプ生活は今にして思えば、はっきり言って貧乏旅行でしたね。キャンプ用のコンロはガソリン・灯油コンロは買えなくて、それでも大枚をはたいて買ったのはたしかフランス製のキャンピングガスと言う目にも鮮やかなスカイブルーのガスコンロでした。ブタンガスですが、一度装着してしまうとバルブをはずせず、用途を変えてカートリッジを付け替えることが出来ない製品でした。それでも当時のキャンプ少年の憧れの製品でした。これにエバニューやホープのアルミのコッフェルを組み合わせ、インスタントラーメンに餅を入れて「ちからラーメン」などと言ってはよく食べたものです。

キャンプ自体も自転車で出かけることが多かったです。そもそも、お金がなくて、時間と若さだけを持て余していた時代でしたから。未だ行ったことのない土地に行くことを考えたら、出かける前夜は興奮して眠れなかったことを思い出します。







また、日本列島は台風の季節です。昨日、いつもながらの絶叫台風報道を見ましたが、いつも同じですねぇ。レポーターが暴風雨の中で絶叫!したり風に飛ばされながら走っているシーンを見る度に、ここまでやる必要があるのか?といつも思います。

台風接近の中、危険な海岸や河川の水際まで行って絶叫!する必要があるのでしょうか。もちろんレポーターと撮影クルーの皆さんはお仕事で命がけで行かれているので頭が下がりますから、テレビ局の姿勢に物申したい気持ちです。

暴風雨の海岸や河川の近くは風雨が強いことは分かりきっていることで、あえてそこに行ってヘルメットを被って絶叫する必要がなぜあるのでしょうか。視聴者は危険な報道活動を決して望んでいないです。競争で危険な報道に突っ走るのはとにかくやめてください。絶叫シーンはこちらも見たくないよー!

台風報道の実況中継は町の中で十分です。海岸や河川の映像は監視カメラの映像で十分です。テレビ局は命がけで危険な報道をするぐらいならば、海岸や河川に監視カメラをもっと沢山設置したらどうですか?








拙宅の庭では沢山の鉢植えを置いていますが、その中に真夏でもずっと咲いているシクラメンがあります。年がら年中、沢山の花があるので、この花がいつから咲いていたか定かではありませんが、5月の連休にまだ咲いているなと思った記憶があります。よく言われるように、草花は丹精込めて手間ヒマをかけただけ、それに応えてくれるようです。








まだまだ暑いながらも秋祭りの季節になりました。拙宅の集合住宅でも明日のお祭りの準備で屋台のテントやステージを作っています。小生も今日と明日はお手伝いをすることになっています。

屋台のスタッフもかなり暑いのですが、打ち上げの美味しいビールのため頑張ります!毎年、この一瞬のためだけにお手伝いをしています。やはり、暑い日のイベントは記憶にしっかり残りますね。なぜでしょうか!?






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